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1556年4月 斎藤道三とその長男義龍が長良川を挟んで激突した戦い
1552年 | 道三、美濃国主となる。 |
1554年 | 道三、家督を義龍に譲り、稲葉山城から鷺山城に移る。 |
この頃、もともと仲が悪かったとされる道三と義龍の関係がますます悪化。道三が義龍よりも婿の信長の才能を認めていたからとか、義龍よりも弟たちをかわいがったからとか言われています。
1555年 | 義龍は仮病を使って、弟二人(孫四郎・喜平次)をおびき出し て殺害した。 道三は驚き北へ逃走。 北野城(大桑城説有)へ退く。 |
1556年 | 道三軍、鶴山へ布陣、義龍軍稲葉山城から長良川南岸へ移動。 4月20日 長良川を挟んで両者激突!! |
斎藤氏家臣の多くは道三側ではなく義龍側に付き、合戦時は道三軍約2.700の兵に対し、義龍軍は約17.500の兵となりました。
※義龍軍には土岐氏と父道三の頃からの重臣で織田信長時代「西美濃三人衆」と言われた、北方城の安藤守就、曽根城の稲葉良通(一鉄)、大垣城の氏家卜全らがいました。
織田信長はこの長良川の戦いに道三の援軍として美濃へ出陣、大良河原(現羽島市あたり)に布陣しますが、戦いの途中で道三討死の報が届き尾張へ引き返しました。
長良川の戦いに勝利した義龍が美濃国主となると、信長は1567年に美濃を平定するまで何度も美濃へ侵攻します。
1556年4月 | 大良河原の戦い |
1560年6月 | 西美濃、安八への侵入 |
1560年8月 | 再び西美濃へ侵入 |
※義龍軍が強く、ことごとく撤退
1561年5月 義龍35歳の若さで急死、その子龍興がわずか14歳で家督を継ぐとその3日後に信長は再び美濃侵攻を開始します。
1561年5月~ | 森部の戦い、軽海十四条の戦い |
1563年 | 新加納の戦い |
1565年8月 | 鵜沼城、猿啄城落城 |
1565年8月 | 堂洞の戦い、関・加治田の戦い |
1566年8月 | 河野島の戦い |
1567年8月 | 稲葉山の戦い |
※年代、年齢、場所については諸説あるものもあります。
年表からわかるように美濃侵攻の前半は西美濃から攻めようとして一進一退、後半は東美濃から攻略をはかっています。
1563年の小牧城築城、1564年の犬山城落城が東美濃からの侵攻に勢いをつけました。
次回から『信長公記』を中心にこれらの戦いを詳しく見ていきます。