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美濃土岐氏は室町時代から200年以上にわたり、美濃守護としてこの地を治めました。
初代 | 頼貞(1271~1339年) |
2代 | 頼遠(?~1342年) |
3代 | 頼康 (美濃土岐氏の流れ③予定) |
4代 | 康行 |
5代 | 頼忠 |
6代 | 頼益 |
7代 | 持益 |
8代 | 成頼 |
9代 | 政房 |
10代 | 頼武 |
11代 | 頼芸 |
12代 | 頼純 |
13代 | 頼芸 |
御醍醐天皇による討幕から常に足利尊氏に従ったため、室町幕府成立頃、美濃守護職を与えられました。
頼貞の子。足利尊氏に従い数々の合戦で武功をあげています。(特に青野が原の戦い)
奥州北畠の大軍50万が美濃まで侵攻した時点で足利軍は8万。
軍議では「美濃を通過させて尊氏の援軍と挟み撃ちが得策」と決まりかけたのを、頼遠一人が美濃青野が原で迎え撃つ事を主張し、ここで合戦となりました。(『太平記』より)
しかし、バサラ大名と呼ばれる行き過ぎた振舞いで最後は処刑されてしまいました。
南北朝の頃、身分秩序を無視した実力主義で破天荒な振舞いをした大名の事を言いました。
1342年、笠懸(疾走する馬上から矢で的を射る)の帰り、頼遠が光厳上皇の行列と遭遇。
酒に酔った勢いで上皇の牛車に向かって矢を射ってしまい、のちに処刑されます。しかし、その後も土岐氏は美濃守護を引き継ぐ事を許されました。
元寇(蒙古襲来)いよる経済難と北条氏による専制政治に対する武士の不満と御醍醐天皇の討幕計画が重なり、正中の変・元弘の乱を経て鎌倉幕府は滅亡しました。
元弘の乱では鎌倉幕府の御家人だった足利高氏(のちの尊氏)が幕府から離反して討幕に加わりました。
御醍醐天皇の天皇中心の政治をしようとするこの新政に武士たちは反発。
中先代の乱・建武の乱を経て
足利尊氏は京を制圧し、光明天皇を擁立。天皇より征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きました。
御醍醐天皇は京を追われ、吉野へ逃げ「自分が正当な天皇だ」と南朝を開いたため、北朝と南朝に2人の天皇が存在することとなった南北朝時代となりました。
3代土岐頼康へ続く
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