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今回は伊能忠敬測量隊の第4次測量、東海道から北陸を測量時、美濃路を通過したことについてです。(紙版ミニコミ番号:第65号/H24.6発行)
第4次で測量隊は、美濃路を測量しました。測量日記によると、①川の測量をしたこと、②南宮参詣、養老の滝見物をしたこと、③お茶壺道中で足止めを余儀なくされたことや雨などで逗留したことなどがわかります。
美濃路は、江戸時代の主要街道である東海道、宮の宿(熱田)と中山道垂井宿を結ぶ道で現在の羽島━墨俣━大垣を通っていました。(美濃路についてはまた後日詳しくとりあげます。)
日記に書かれてある村名から測量の道筋をたどることができます。
起宿━|木曽川|━三柳村━新井村━不破一色村━坂丸村━森村━須賀村━南宮村━坂井村━東小熊村━御茶屋新田村━|墨俣川|━墨俣宿━東結村━西結村━|沢渡川|━佐渡村━小野村━加賀野村━今宿村━三塚村━藤江村━大垣町━大垣宿
木曽川、墨俣川(長良川)、沢渡川(揖斐川)等の川幅を測量するので、小舟を2、3艘用意してくださいと関係各村へお触れを出しました。
第一次測量では、自費で測量をする条件で幕府の許可を得たため、全く村の協力をえられませんでした。しかし第一次測量が評価され、次第に幕府に認められるようになり、第4次の頃には測量隊が行く先には、測量に協力するよう前もってお触れが出されるようになっていました。
川幅は、梵天という棒の先に房をつけた目印を所々に立てて、間縄や鉄鎖を張って距離を測りました。
大垣では雷雨・隊員の病気で1日足止めとなっています。
18日は垂井宿を出立し、隊員3人が関ヶ原宿までを測量。
一方、忠敬は数名で南宮参詣、養老の滝見物をして関ヶ原宿へ。
「養老の滝」は美濃の名所、浮世絵師 葛飾北斎も「美濃国 養老の滝」(木版画)を描いています。
「お茶壺道中」は将軍家に献上する新茶を、宇治から運ぶ行列で、とても権威のあるものでした。
大名行列中の大名でさえ、お茶壺道中に出会うと道をあけ、駕籠から降りて礼をしなければならず、旅人や村人にとって、とても厄介なものでした。
19.20日と将軍家に加え、水戸、尾州家に献上するお茶壺道中3つが関ヶ原を通過したため、これをやり過ごすため、関ヶ原泊が長引いたと思われます。
次回は、伊能忠敬の人生、なぜ測量をすることになったのか、等について取り上げてみたいと思います。
伊能忠敬の測量人生へ