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今回は江戸時代、中山道最大のイベントであった、皇女和宮の御降嫁大行列のこの地域での様子を見てみます。(紙版ミニコミ番号:第3号/H19.4・第22号/H20.11発行)
江戸末期、幕府の力は弱まり、外国からは圧力をかけられ、国が混乱します。
幕府が、朝廷の力を借りてこれを治めようとした公武合体政策の為、皇女和宮は、他に婚約者のいる身ながら、国と民の為、身を捨てる覚悟で江戸へ降嫁されました。
中山道が選ばれたのは、前回のブログにある理由の他、降嫁反対派が和宮をうばい返すといううわさがあり、東海道より警備のしやすかった事もあると言われています。
和宮の影武者を3名加えたり、街道筋や宿場は幕府から警備上の厳しい申し付けがあり、役人から農民までが大騒動に巻き込まれました。
仁孝天皇の皇女、次の孝明天皇の妹、明治天皇の叔母である和宮は1861年、16才の若さで徳川将軍家、家茂のもとへ京から江戸へ、中山道を通ってお嫁入りをされました。
1861年
京を10/20出発|中山道を通り|→10/25赤坂宿着
赤坂宿を10/26 8:00 出発
【赤坂宿の御嫁入普請】
赤坂宿への泊まりが急に決まったため、8月から2か月足らずで宿場の町並みを見苦しくなく整えました。
表だけ2階建てに見えるようにしたり、空地に新築をしたり、大急ぎの突貫工事が行われました。
古くから交通の要所となっていた呂久の渡しを大垣藩の用意した10そうの船で渡られたのはちょうど紅葉の頃でした。
船の上から、対岸のもみじが美しいのを心に留められ、読まれた句
”落ちてゆく、身と知りながらもみぢ葉の
人なつかしく、こがれこそすれ ”
(渡り終えた後、そのもみじの枝を一枝所望され、その枝を河渡まで輿に立ててゆかれたそうです。)
京で降嫁を決意された時に詠まれた句は
”惜しまじな、君と民とのためならば
みは武蔵野の露と消ゆとも”
呂久の渡しでは安全を期して、街道から川沿いに南へ200m下った流れのゆるやかな所に乗船場を設けました。船を川上へこいだら、後は自然の流れに乗ってちょうど船着き場へたどり着けるよう、事前に何度も訓練が繰り返されました。
美江寺宿で小休止、河渡宿で昼食後、再び長良川を渡り加納宿へと中山道、この地域を通過されました。
行列の先頭が通過してから、最後尾が通過し終わるまで4日かかる大行列でした。総勢15000人、行列の長さは50㎞だったと言われています。その間、街道沿いの家では、
①見物について男子は禁止。女、子どもは入り口より奥で拝見する。
②下向の用以外は、街道への外出禁止。
③音、煙は出さない。
④犬をつなぎ、猫、鶏まで気を付ける。
⑤高い所に物を置かない。
などなど、注意事項がいっぱい!
人々が大変な気を遣い、息をひそめて通行を見守る様子が目に浮かびますね。
和宮御降嫁大行列のお触れが出てからの準備も大変で、宿場だけでなく近隣などからたくさんの人が借り出されて、大わらわだったようです。
次回はさまざまな宿場に残る和宮御降嫁の足跡を見ていきます。
※和宮様のさびしさをまぎらわすため、三毛猫、小鳥、ハツカネズミを御供に御連れになったそうです。
※呂久では毎年、和宮様をしのび、4月と10月に小簾紅園にて例祭が行われています。