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船田合戦(前号参照)で家督争いに勝利した9第美濃守護の政房ですが、政房もまた嫡男頼武ではなく、次男頼芸を後継者にしようとして家督争いになってしまいます。
1517 | 永年14年両者で戦いが勃発、頼武側が勝利 |
1518 | 再び合戦、今度は頼芸側が勝利し、頼武は朝倉家を頼り越前へ逃れる |
1519 | 頼武は朝倉氏の支援で再び美濃へ侵攻、頼芸に勝利し、10代美濃守護となる |
1525 | 頼芸を奉じた長井長弘が挙兵して、頼武を追放するも近江浅井氏・六角氏、越前朝倉氏も巻き込んだ内乱が続く |
1527頃 | 和議で一旦落ち着く |
1528頃 | 頼芸再び挙兵 |
1530頃 | 頼武、越前へ逃れる、この数年後に頼芸が11代美濃守護となる |
油売りから一代で美濃国主になったとされていた道三の下剋上は、『六角承禎条書(春日家文書)』の発見により、道三の父と道三 二代によるものと言われています。
小守護代長井氏の家臣であった道三は父は永正・大永の乱の頃、頼芸側として戦功をあげたと思われますが、のちに頼芸を追放して道三が美濃国主となります。
1527年 道三と深芳野の間に義龍誕生
※深芳野はもとは土岐頼芸の愛妾であったのを道三が貰い受けて側室としたとされています。これが真実であるなら永正・大永の乱で頼芸がすでに道三側にかなりの信頼をおいていると思われます。
道三の父 長井新左衛門尉が美濃へ来てから道三へ引き継がれるまでの流れを憶測を含めながらまとめてみます。
船田合戦(1495~1496年)
美濃永正の乱(1517~1519年)
美濃大永の乱(1525~1530年)
※1526年 東大寺からの贈答を主君の長井長弘よりも多く受けており、すでにかなりの実力者となっていることがわかります。
いつ道三の父が美濃へ来たかは不明ですが、美濃永正の乱の頃から土岐氏の下で活躍したと思われます。(船田合戦の頃からの説も有り)
1526年頃 土岐頼芸から深芳野を貰い受け、1527年に長男義龍が生れました。
1533年2月 主君 長井長弘が亡くなる
1533年3月 道三の父 重病
1533年6月 長弘の子 景弘と道三(長井新九郎規秀)の連盟で初めての文書を出しており、この頃道三が家督を継いだことがわかります。
主君 長井景弘の名がこれ以降見られず、すでに亡くなったか、道三による主君討ちかにより道三の権力はさらに強くなりました。
次回へ続く